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−編集・発行 創形美術学校同窓会−

 

(VOL.9) 

特集 「デザイン科設立10 年」
   
現在のビジュアルデザイン科は、1991年グラフィックデザイン科として発足しました。世紀末から新世紀にかけてのこの10年を、元校長であり最初のデザイン科主任であった若尾眞一郎先生と現主任である山田隆志先生に振り返ってもらいました。
    
 若尾眞一郎先生

 

若尾眞一郎先生
元学校長
元デザイン科主任
創形美術学校は1969年創立以来、ファインアート分野でのユニークな専門学校であった。しかし同時に安定した受験生確保は大きな課題であったし、新しいイメージチェンジの発想も模索していた。デザイン科の新設はそのような状況の中で打ち出された。
とはいっても油絵と版画の長い歴史の中でデザインの出現は、特に教員には相当の戸惑いがあった。共に担当した秋山孝(現多摩美術大学教授)と僕は故堀井英男先生や上野遒先生達の顔を恐る恐る見ながら、ルーキーのサービス精神を発揮してプレゼンテーションをこなしていた。例えば、ファインアート科の純粋美術に対して、デザインは不純美術(本当は応用美術)などといって、自らを下げすましていた。                                                                       
 さて、発足にあたってデザイン科にどのような特徴を持たせるかが最も重要であった。僕達は何回となく議論を重ねながら結論として都心から離れている創形に「デザインの現場と臨場感」を持ち込むことだった。他の専門学校や美術大学との差別化はこれしか無かった。はたして超多忙で名だたるクリエイター達が国立までわざわざ教えに来てくれるだろうか……?来てくれたのだ! 僕の営業外交(詳しくはマル秘)と説得が功を奏し、デザイナー、イラストレーター、コピーライター等が大挙来校となった。

1991年4月デザイン科がスタートした。一期生に個性豊かな学生が大勢入学した。カリキュラムは基礎→専門というシステムを取らず一年の初めにいきなりブックデザイン やポスター課題を制作させた。授業は過激だった。特に講評会では僕と 秋山孝はいつも吠えていた。もちろん事前の打ち合わせはしていたが次第にエスカレートしケンカ講評になり僕達の間に入った藤掛正邦(現多摩美術大学講師)は、「まあ、まあ まあ」といつもなだめ役であった。生徒達には効果抜群だった。

ギャラリーを開設したことも良かった。それぞれの科や先生達の作品交流、企画展による外に向けての発信は創形美術学校のステイタスになっている。ポスターコレクションも 秋山孝の提案で短期間に多くのポスターがコレクションされた 。ある日、副手の阿部智栄美さんと銀座の日本デザインセンターに行き、永井一正氏からオリジナルポスターを数十点寄贈され、大感激したことなど好意に甘えず今後も是非続けて欲しい。

 デザイン科発足10 年!もう10 か、まだ10年か、でもあるが今「デザイン」が私達の生活全てを支配している。かつてデザインは人間が生き、生活するための豊かさを追求し続けてきたが、21世紀に入り様々なマイナス要素も多い。それだけに現代の若者はデザインに対しての認識が薄い。
このような状況のなかで今後のデザイン教育は、なかなかむずかしいと思う 。新しいテクノロジーの発達もエスカレートしているがデザインすることはなくならないし個性的なデザイナーを社会は求め ている。もとを正せば一人の人間の技の結果である。作家を育てて欲しいと思う。創形美術学校全体ではコンテンポラリーも 含めた、さまざまなアーティストを輩出してもらいたい。それには教える側の優秀な人材の多様さがキーポイントになるだろう。

 山田隆志先生


ビジュアルデザイン科主任
 新しいかたちの教育理念を掲げ1991年に新設されたグラフィックデザイン科はその後95年に名称をビジュアルデザイン科に改め時代に呼応しながら今年、節目としての10周年を迎えました。

 当時、若尾真一郎先生が中心になりスタートした創形のデザイン教育は、デザインの現場から多くの著名な先生方を講師として招き、常にリアルタイムなデザインを学べるそれまでにない斬新なものでした。私は、親友でもあった故牧野仁輝先生の後任として97 年に非常勤講師を引き受け、若尾先生が退かれたあと1999年より主任として多くの先生方のお力添えをいただきながら現在のデザイン科を受け継いでいます。

 2000年の4月に歴史ある国立校から池袋の新校舎に移転した創形は、都市型の専門学校として新たにスタートし、危惧していた移転にともなう環境の変化にも大きな問題もなく学生達もすっかりここ池袋に馴染んでいます。デザイン科にあっては教育空間を東京の中心部に移すことで、大都会に集中する多くの情報をタイムリーに収集できたり、デザイン関係のイベントやエキシビジョンへの参加を含めたコミュニケーションの活性化等、そのメリットは計り知れないものがありました。国立校では困難だった授業も池袋校では可能になるなど、授業形態も大きく変わりつつあります。このような劇的な環境の変化はデザインを学ぶうえでの学生の意識とモチベーションにも少なからず影響が出ています。

 現在、デザイン科には128名の学生が在籍していますが、少数の学生に対して年間に100人近い講師の先生方が指導にあたり、様々なジャンルで魅力あふれる個性的な授業が日々行なわれています。このように創形ならではのクオリティの高いカリキュラムは、個人レベルできめ細かく指導にあたることで十分な基礎的能力を養い、クリエィターとなるべく柔軟な意識と発想力、表現力を個々の学生に身に付けさせています。

 現在のデザインを取り巻く状況は10 年前とは大きく変化し、情報化社会の渦の中で方向性がきわめて不透明になっています。この変化にとむ社会状況の中でこれからのデザイン教育をどのように位置づけていくか。節目をむかえたデザイン科のこれからは次の10年に向けてのカリキュラムのさらなる充実と時代に即した柔軟な指導力が求められることと思います。
                      
 シリーズ「あの時の卒業生は今」Part7

  
松丸健治
松丸健治
造形科23期 
造形科23 期生として入学し、研究科を終了してから、6年が経過しました。創形に入学した当初、創形もデザイン科ができて、造形科のスタッフも変わり、大きく変化し始めているようでした。今思えばその頃は創形周辺の変化も含め、社会全体も大きく変化を始めている時期であったように思います。すでにバブルが崩壊し、修了制作を描いている時には阪神淡路大震災がありました。単なる出来事と言うより、価値観の変換を促されることとして個人的にも大きな影響を受けたように思います。

 さて、在学中の生活は、それ自体では大いに楽しんでいました。高校を卒業後すぐに進学した者や自分と同じ様な経歴の者、社会人からと、小さな学校の割には人材が多彩で刺激がありました。はじめは自宅から通学し、途中から谷保天のすぐ傍の古い長屋風の借家で暮らしました。真夏に何人も集まり遅くまで騒いでいたのを思い出します。浪人の頃の悶々としてやり場のない憂鬱感とは違って、虫や、ネズミまで出て、冷房もなく、冬はすきま風の入る狭い部屋での生活は、ひどかったとも言えるけど、楽しいことも多く、大変懐かしいと思える事でもあります。創形に進学したのは正直、浪人が長くなったということでした。浪人が長かった分だけ、研究科や、職員にまで知り合いがいて、入学時から緊張するというより解放された気分でした。そのためか、研究科に進学するまで真摯に自分の表現について考えるという態度は少なかったように思います。そのことは、卒業時に様々な講師の方から指摘され、自分の弱さの現れとだったと考えています。友人の中には在学中から様々な試行錯誤を繰り返し、自分の表現方法をつかんでいった者もいたけれど、自分は割り切ることが出来ずただ日々を重ねていただけでした。研究科に進学した後では、もう少しひたむきにやっていたように思います。馬鹿騒ぎも少し減っていました。

 研究科を修了した後は、すぐに美術予備校に就職しました。それまでの教えられる立場から、直接制作を指導する訳ではないにしろ、少なくとも美大受験予備校の職として学生と接することに、多少の違和感と矛盾を感じながら、そのまま現在まで働いています。しかし一方で以外に順応している自分も発見できました。それまで触れたことのないパソコンで広報用のチラシの作成やデータ管理、あるいは、見学者の応対や学生の進路の相談まで様々なことを行っています。大きな会社とは違い運営に関するあらゆることに携わることは、忙しい反面学ぶことも多く刺激の多い日々を送っています。そして、作家として活動している方々が周囲にいてアドバイスを受けることもあり、又、制作について理解してもらえることは恵まれた環境であると思います。気楽な学生の頃とは異なり、生活の上では様々なことがあり、その都度生活に対する価値観が変わってきました。浪人の頃からの知人で、創形の頃も他の友人達と共にすごしていた女性と結婚しました。その結婚直後、母が他界し、その死について考えさせられ、同時に、残され父のこと、自分たちの生活のことなど生きることについても考えざるを得なくなりました。ただそれよりももっと大きな変化を促したのは子供の誕生でした。制作する者同士の結婚は互いに理解者にも批判者ともなれる関係で、安心感と緊張感を同時に与えられていたように思います。しかし、子供の誕生は、生活のリズムから、習慣などそれまでとはまるで違ったものにしていきました。家からはたばこが消え、オーディオに入っている洋楽のCD はやがて童謡に変わり、子供が中心の生活になっていきました。また、こうしたときどうしても女性の方の負担が多くなり、同時に制作していくことを困難にし、それまでの緊張感とは異なった責任の重さをも加わってきています。ただ、子供の日々の変化は大きく、少しずつ様々なことを認識していく様子を観ていると、人間の意識や周囲の状況、自分の姿勢などについて改めて考えさせられます。そうした生活の中でともすれば日常と、子供との関わりの中で満足してしまいがちになるのを制作に引き戻すのは、活動を続ける友人達の刺激によるものだと思います。最近は個展の案内など以外に頻繁に連絡を取り合うことが減ってきましたが、学生の短い期間に得た最も大きなものは、そうした関係だったと思います。
 これから先も様々な出来事を糧として、又友人に刺激されながら少しずつでも前進していきたいと思っています。

高山裕子
高山裕子
ビジュアルデザイン科6期 
 暑い日、寒い日、雨の日。電車に乗る。そこから見えるたくさんの家、家、家。家の形がすき。毎日違う世界。そこでイメージの世界を考えてみる。

 静かで広くて穏やかな場面。いつか行きたい場面。ピンク色の家は欠かせないかな。緑色の草、木。そこにどんな人がいるのだろう。ある生活の一場面。長い長い道の向こう。ほんとうに人が住んでいるのかどうかも分からない。動物がいる。馬、犬、鹿・・。暖かい風が吹いている。少し懐かしいような場面。まっすぐで飾ることのないかんじ。あの色とあの色が重なったかんじを思い浮かべる。
 そんな毎日のトレーニング。絵を描くという行為だけにとどまらない、いろいろな出来事。毎日のわたしがわたしのイラストレーションにつながっていきます。いろいろな気持ちが大事。友達と遊ぶ。旅行をする。映画をみる。お茶をする。本を読む。笑う。全て大切。人と出会う。そして、少なからずの影響を受けて毎日、毎日変化していく。いろいろなものに興味を持つ。良い日悪い日。そんな日々の変化そのものを絵にして、大きくなっていきたい。現在、副手という仕事を通し学生だったころの私を客観視し振り返ってみたりします。やるしかない今と比べて何をやればいいのかすら分からない。四回の個展を通してやっと発展途上の段階になれた気がします。「まだまだ恥をかくことが必要」先日の個展で若尾先生に言われた言葉。肝に銘じて。毎日を楽しく、嘘なく、自然に、まわりの人々を大切にしていくことを心がけたい。私もいいものをたくさん見てたくさん感動したい。そして義務として感じる事なく楽しく描く。自分が何を表現したいのか表面的なことだけでなく考えを持つということ、そして自分から学んでいくということを学んだ創形での学生生活は、私にとって今後大きな力となると思います。

 これから先どんな場面に出会えるか私にも分からないけれどできる限り追いかけていきたいと思います。
 
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